本多市郎

本多市郎

本多 市郎(ほんだ いちろう、1895年明治28年)11月11日 - 1959年昭和34年)4月5日)は、日本政治家衆議院議員参議院議員行政管理庁長官(第4・10代)、地方自治庁長官(第2代)、自治庁長官(第2代)。位階正三位勲等は勲二等。

来歴・人物

長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)に、農業・本多福四郎の長男として生まれる。長じて上京し、両国税務署員として働きながら、1925年中央大学法科を卒業する。上京時の下宿先では小澤佐重喜と起居を共にしていた。

関東大震災が起きると、復興局に勤務する傍ら、深川区(現在の江東区北西部)の自宅に法律無料相談所を開いて罹災者の相談に乗り、地元住民の信望を集めていった。

1929年東京市議に当選、1936年には東京府議にも当選する。尾崎行雄に私淑し、1936年の第19回衆議院議員総選挙では昭和会公認で、翌1937年第20回衆議院議員総選挙では無所属で旧東京4区から出馬するが落選。1942年翼賛選挙では非推薦候補として立候補し当選を果たす。以後連続6回当選。戦時中は軍部や東條批判で鳴らした。

戦後は日本自由党結党に参加し、選挙区も出身地の旧長崎1区に移す。弁舌に長じ、選挙では党遊説部長として活躍する。1949年2月第3次吉田内閣にて国務大臣行政管理庁長官)として入閣。16万6千人にも及ぶ国家公務員の人員整理の陣頭指揮を執った。1950年からは地方自治庁長官も兼任。

1952年第4次吉田内閣にて再び国務大臣(行政管理庁長官兼自治庁長官)として入閣する。1955年の総選挙で落選、1956年全国区にて参議院議員に当選。

1959年4月5日、心臓麻痺のため国立東京第一病院で現職のまま死去、63歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正三位に叙される[1]

脚注

  1. ^ 『官報』第9687号187頁 昭和34年4月9日号
公職
先代
木村小左衛門
日本の旗 地方自治庁長官
第2代:1950年
次代
岡野清豪
先代
岡野清豪
日本の旗 自治庁長官
第2代:1952年 - 1953年
次代
塚田十一郎
先代
工藤鉄男
野田卯一
日本の旗 行政管理庁長官
第4代:1949年 - 1950年
第10代:1952年 - 1953年
次代
岡野清豪
塚田十一郎
議会
先代
松岡平市
日本の旗 参議院地方行政委員長
1956年 - 1957年
次代
小林武治
先代
新設
日本の旗 衆議院商工委員長
1948年
次代
大野伴睦
日本の旗 地方自治庁長官,自治庁長官 (1950年/1952年-1953年)
中央省庁等改革
郵政大臣
自治大臣
地方財政委員会委員長
地方自治庁長官
自治庁長官
自治大臣
総務庁長官
総務大臣
2001年(平成13年)1月6日、郵政大臣自治大臣総務庁長官が統合され、総務大臣が置かれた。
日本の旗 参議院地方行政委員長 (1956年-1957年)
長崎県の旗 旧長崎1区選出衆議院議員(1947年 - 1993年) 国会議事堂
定数5
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
↓:途中辞職、失職など、↑:補欠選挙で当選。
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
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