上田稔

上田 稔
うえだ みのる
生年月日 1914年5月8日
出生地 日本の旗 京都府京都市
没年月日 (2011-09-17) 2011年9月17日(97歳没)
死没地 日本の旗 京都府長岡京市
出身校 京都帝国大学工学部土木工学科卒業
前職 建設省職員
所属政党 自由民主党
称号 勲一等瑞宝章
従三位

日本の旗 第15代 環境庁長官
内閣 第2次中曽根内閣
在任期間 1983年12月27日 - 1984年11月1日

選挙区全国区→)
京都府選挙区
当選回数 4回
在任期間 1968年7月8日 - 1977年7月10日
1978年4月24日 - 1986年7月7日
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上田 稔(うえだ みのる、1914年5月8日 - 2011年9月17日[1])は、日本官僚政治家および技術士(建設部門)。京都府京都市出身。自由民主党参議院議員(4期)。勲一等瑞宝章受章。従三位

来歴・人物

1938年(昭和13年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業[2]1938年、内務省に入省。1939年(昭和14年)陸軍に召集され日中戦争に出征し、華北方面を転戦して1944年(昭和19年)に復員[2]大阪府土木部で道路と河川関係の業務に従事した[2]

戦後は建設省で、河川局治水課長補佐、近畿地方建設局河川部長、水資源開発公団関西支社長、九州地方建設局長、近畿地方建設局長などを歴任[2]。1964年(昭和39年)河川局長に就任し1968年(昭和43年)に退官[2]。同年7月の参院選全国区から自民党公認で出馬し初当選。1974年の参院選では3年議員として当選し1977年の参院選には不出馬だったが、1978年の参院京都府選挙区補選で国政復帰して通算当選4回。

議員在職中には北海道開発政務次官、参院地方行政委員長などを務め、1983年第2次中曽根内閣環境庁長官として初入閣を果たした。また、日本技術士会第12代会長(1987年5月から1993年6月)も務めていた。

1986年第14回参議院議員通常選挙に出馬せず、政界を引退。引退後は自由民主党京都府支部連合会顧問を務めた。

2011年9月17日、肺炎のため京都府長岡京市の自宅で死去。97歳没[1]。同日付で、従三位に叙された[3][4]

脚注

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  1. ^ a b 時事ドットコム:上田稔氏死去(元環境庁長官)
  2. ^ a b c d e 『近代日本土木人物事典』pp.100-101
  3. ^ 正七位から進階。
  4. ^ 2011年(平成23年)10月25日付『官報』本紙。

参考文献

  • 「日本技術士会創立50周年記念誌」(2001年6月、日本技術士会創立50周年記念誌編集小委員会、p.5, p.26)
  • 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。

外部リンク

  • 上田稔 略歴 - 自由民主党京都府支部連合会
公職
先代
梶木又三
日本の旗 環境庁長官
第15代:1983年 - 1984年
次代
石本茂
議会
先代
原文兵衛
日本の旗 参議院地方行政委員長
1976年 - 1977年
次代
高橋邦雄
先代
安西愛子
日本の旗 参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 次代
山口淑子
日本の旗 環境庁長官(1983年-1984年)
環境庁長官
環境大臣
日本の旗 参議院地方行政委員長 (1976年-1977年)
第1回
(定数4)
3年議員
偶数回
定数2
第2回
第4回
第6回
第8回
第10回
第12回
第14回
第16回
第18回
第20回
第22回
第24回
第26回
奇数回
定数2
第3回
第5回
第7回
第9回
第11回
第13回
第15回
第17回
第19回
第21回
第23回
第25回
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
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