蔣欽

蔣欽
後漢
右護軍
出生 生年不詳
揚州九江郡寿春県
死去 建安24年(219年
拼音 Jiǎng Qīn
公奕
主君 孫策孫権
テンプレートを表示

蔣 欽[1](しょう きん、? - 219年)は、中国後漢末期の武将孫策孫権に仕えた。字は公奕。揚州九江郡寿春県の人。子は蔣壱蔣休。『三国志』呉志 に伝がある。

生涯

周泰と共に孫策に仕えた[2]袁術に身を寄せていた時代から孫策の側近であったという。孫策が江東に進出すると、別部司馬となり、兵士を与えられた。孫策に従って三つの郡を平定し、さらに豫章郡に進出した。また葛陽県尉となり、三つの県の県令も務めた。山越の不服従民を征服させた時は、会稽の西部都尉となった。

建安13年(208年)、会稽や東冶においても、呂合や秦狼といった不服従民が反乱したため、呂岱と協力してこれを討伐し、彼等を捕虜とし五つの県を平定、討越中郎将となり、経拘と昭陽を奉邑として得た。後に黟県を転戦し、蔣欽は賀斉と共に出撃して黟県の反乱の討伐に向かうと、一万の兵の指揮を執ってこれに協力し、反乱を平定した。

建安20年(215年)、孫権は合肥に向かって軍を進めた(合肥の戦い)。孫権軍は合肥を攻め落とせず、陣中に疫病が発生したこともあって孫権軍は撤退を開始した。逍遥津撤退戦で孫権・呂蒙・蔣欽・甘寧凌統らが殿として敵の追撃を防ぐこととなり、曹操軍の張遼楽進らの奇襲で蔣欽は奮戦して孫権を守り切るという手柄を立てた。この功で盪寇将軍に任命され、濡須督となった。

昔、蔣欽は宣城に駐屯していた時、豫章郡の不服従民の追討に当たっていた。徐盛蕪湖県令の職にあり、蔣欽の留守中にその役人を罪に問い、捕らえて斬刑に処そうとしたことがあったが、孫権は蔣欽のことを慮って許可を与えなかった。このことから徐盛は蔣欽の報復を恐れるようになったという。

建安22年(217年)、曹操は10万人以上の軍勢で濡須口に向かって軍を進め、蔣欽は呂蒙と共に諸軍の総指揮を執った。徐盛は以前の事もあって彼を恐れていたが、蔣欽は徐盛の優れた所をしばしば褒め称えたため、徐盛も蔣欽に心服し、また人々も蔣欽の徳を褒め称えることになった。孫権は蔣欽に理由を聞き、私怨に捉われない態度に感心した[3]。後に濡須を守る功績を挙げ、この功により右護軍に任命され、都に召還され、訴訟の事務にも当たっている。

建安24年(219年)、兼ねてより荊州をめぐって劉備と抗争していた孫権は、荊州を奪還することを計画し、呂蒙に総指揮を任せた。このときの戦いに蔣欽も参戦し、呂蒙の計画通り、水軍を率い沔水の流域を進み勝利した[4]。しかし、その帰還の途中に病を得て没した。孫権は喪服を着て哭し、妻子に蕪湖の住民二百戸・田二百頃を与えさせた。

一族

  • 蔣壱 - 蔣欽の子。呉の宣城侯。蔣欽の兵を引き継ぐ。
  • 蔣休 - 蔣欽の子。蔣壱の兵を引き継ぐが、のちに所領と官位を失う。

子の蔣壱が跡を継ぎ、宣城侯の爵位を継承し兵士を預けられた。しかし子がなかったため、その死後は弟の蔣休が継ぎ、兵士を預けられたが、罪を得て所領と官位を失っている。

人物

  • 功績を挙げ昇進しても奢ることが無く、質素倹約に努め、母や妻にも粗末な衣服や装飾品を用いさせていた。このことに気づいた孫権は、すぐに命令して豪華な装飾が施された衣服や装飾品を届けさせた。

逸聞

  • 聡明ではあったが教養に乏しかったため、呂蒙と共に孫権から勉学に励むように諭された。このため必死に書物を読んで勉強し、呂蒙と並んで、孫権に「その行いは人々の模範となり、国士である」と賛嘆された[5]
  • 孫権が蔣欽に尋ねて「徐盛はかつてあなたのことを挙げつらった上言をしたのであるのに、あなたはいま徐盛を推挙される。祁奚(中国語版)[6]に倣うつもりかね?」蔣欽は答えて「臣は、公の推挙には私怨をまじえぬものと聞いております。徐盛は、まごころをもって勤めに励んでおり、胆略で見通しがきき、器量も備えていて、一万の兵を指揮するにふさわしい人物です。いま統一という大事もまだ未完成であって、臣には国家のために才能ある人物を捜し求める義務がございます。どうして私怨にひかれて有能な人材をかくれたままにしておいたりいたしましょう」。孫権はこの言葉を喜んだ。徐盛は蔣欽の徳に心服し、人々の風評も蔣欽をほめたたえた。

三国志演義

小説『三国志演義』では、元々周泰とともに水賊をしていたが、劉繇と戦った孫堅の遺児である孫策の軍に参加し、劉繇が孫策に敗れ、劉繇の部下の陳横は、蔣欽に弓矢で射殺された。江東平定戦で活躍することになっている。正史と異なり、赤壁の戦いやその後の南郡の戦いにも参加するが、南郡では曹仁牛金に大敗してしまうため、周瑜に斬られそうになっている(正史では蔣欽は赤壁の戦いや南郡の戦いに参加しなかったが、かえって賀斉とは歙県と黟県の討伐に向かうと、大規模な反乱を平定した)。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪問したときは、張昭の薦めで孫夫人と逃走した劉備の追撃を周泰とともに任され、従わないときは夫婦共々斬ってもよいという命令を受けている。関羽討伐戦に参加するのを最後に、物語から姿を消し、その死の描写や報告もない。

参考文献

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 蒋欽と表記されることも多い。
  2. ^ 『三国志』呉志 周泰伝
  3. ^ 江表伝
  4. ^ 『三国志』呉志 呂蒙伝
  5. ^ 『三国志』呉志 呂蒙伝 が引く『江表伝』
  6. ^ 晋の太夫。『春秋左氏伝』襄公3年、祁奚が退職するに際し、襄公がそのあとのポストに誰を任じるべきかを尋ねたところ、祁奚は仇であった解狐(中国語版)を推薦した、とある。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
典拠管理データベース ウィキデータを編集
  • VIAF