戸田忠友

 
凡例
戸田忠友
時代 江戸時代後期(幕末) - 大正時代
生誕 弘化4年8月22日(1847年10月1日[1]
死没 大正13年(1924年2月10日[1]
改名 唖太郎・求之丞(幼名)、忠友
墓所 栃木県宇都宮市英巌寺
官位 従五位下、安房守、土佐守、子爵
正五位、従四位、正四位、従三位
正三位従二位
幕府 江戸時代 寺社奉行奏者番
下野国宇都宮藩
氏族 戸田氏
父母 父:戸田忠偲、母:戸田忠翰の娘・松枝
正室:戸田忠至の養女・淑子戸田忠温の娘)
側室:鈴、とみ、錫
寧(長男)、忠庸(次男)、昿(三男)、清(四男)、娘(有馬頼萬継夫人)
テンプレートを表示
戸田忠友の墓

戸田 忠友(とだ ただとも)は、下野宇都宮藩の第7代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家13代。

経歴

弘化4年(1847年)8月22日、戸田家分家の7000石の旗本である戸田忠偲の長男として江戸浜町の屋敷で生まれる。母は戸田本家8代戸田忠翰の娘である。文久2年(1862年)5月28日に江戸幕府第14代将軍・徳川家茂小姓となり、12月16日に従五位下に叙位し、元治元年(1864年)5月24日に安房守に任官した。

元治2年(1865年)、本家の宇都宮藩主戸田忠恕(同年齢で母方の従兄にあたる)は天狗党の乱鎮圧失敗などにより、幕命により強制隠居謹慎を命じられ、正月25日、忠友が本家の家督を継いだ[1]。幕府はさらに加えて忠友を陸奥棚倉藩に左遷しようとまでしたが、一門家老の戸田忠至の尽力により転封は免れた。この功績により、忠友は慶応3年(1867年)に1万石を忠至に分与して支藩高徳藩を立藩させている。このため、宇都宮藩は6万7850石となった。

慶応3年(1867年)7月25日に奏者番寺社奉行を兼任する形で任命され、慶応4年(1868年2月16日まで務めた。戊辰戦争では佐幕派として第15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願を行なうべく宇都宮藩兵100人を伴って2月に上洛しようとしたが、道中の大津湊で抑留された。このため、その後3月から4月にかけて藩内で起きた野洲世直しや宇都宮戦争を自ら陣頭指揮することが出来なかった。6月8日には新政府から隠居命令を出されて謹慎する。新政府は忠友を佐幕派とみなしてこれに代わる藩主を擁立しようとしたが、藩内で反対運動が起こったため、明治元年(1868年)11月に隠居を取り消して許している。

明治2年(1869年)6月2日、新政府から功績があったとして1万石を加増される[2]。直後の版籍奉還で宇都宮藩知事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免職された。

明治6年(1873年)3月10日に権少教正に任じられ、6月29日に少教正、明治7年(1874年)6月8日に権中教正に任じられ、学校の創設資金などを供出するなどしている。また、神職宇都宮二荒山神社宮司)を歴任した。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治20年(1887年)12月26日に正五位に昇叙され、明治25年(1892年)7月に従四位、明治30年(1897年)7月に正四位に昇叙され、明治36年(1903年)に従三位、大正元年(1912年)に正三位、大正13年(1924年)に従二位・勲三等瑞宝章に昇叙された。

大正13年(1924年)2月10日に死去[1]。享年78。

家族

脚注

[脚注の使い方]

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
宇都宮戸田家初代
1884年 - 1924年
次代
戸田忠庸
山王日枝神社宮司(第3代、1890年 - 1894年)
神主
  1. 日吉勝房
  2. 日吉清房
  3. 日吉正房
  4. 樹下資範
  5. 樹下成眞
  6. 樹下資信
  7. 樹下永成
  8. 樹下成央
  9. 樹下資英
  10. 樹下資泰
  11. 樹下資政
祠官
  1. 神田息胤
  2. 前田清秋
  3. 前田勇平
  4. 前田清秋
  5. 大関益俊
  6. 平山省斎
宮司
  1. 園池実康
  2. 吉田良義
  3. 戸田忠友
  4. 伊藤景裕
  5. 風早公紀
  6. 柴崎宜弘
  7. 伊藤景裕
  8. 久保悳鄰
  9. 宮西惟助
  10. 秋岡保治
  11. 斎藤英夫
  12. 宮西惟喬
  13. 宮西惟道
  14. 宮西修治
戸田家宇都宮藩7代藩主 (1865年 - 1871年)
奥平家
本多家(正信系)
奥平家
奥平松平家
本多家(忠義系)
奥平家
阿部家
戸田家
深溝松平家
  • 松平忠祇1749-1762
  • 松平忠恕1762-1774
  • 肥前島原藩に転封
戸田家