工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日[1](1860年4月15日) - 大正14年(1925年)7月19日[2])は、青森市初代市長。港湾、水道、中央停車場(現:青森駅)など青森市の振興に取り組んだ政治家として知られる。衆議院選挙には2度当選。政財界の巨頭でもあった。合浦公園には彼を偲んで「工藤卓爾君彰徳碑」が建てられている。孫には第26~29代青森市長の工藤正がいる。
来歴
主な事跡
- 当時の青森の飲料水は非常に水質が悪く、それの対応として上水道の設備に取り掛かっていた。当時青森市では1886年にコレラ、1891年には腸チフスが大流行していた。だが、日露戦争の影響で着工が出来なくなり、1907年4月まで工事が開始されず、やっと完成したのは1909年の事であった。また、1901年には青森第三中学校(現:青森県立青森高等学校)を開校させている。
- 1910年5月3日、青森市は火災により5千戸以上が焼失したが、この際彼は自ら東京の街頭に立ち義援金募集をし復興事業を引っ張っている。復興の都市計画でも、防火線の設置などさまざまな取り組みを行った。
- 市議会が混乱していた(前任の阿部政太郎は弘前高等学校(現:弘前大学)を作ることを認めてしまっていた)ため、まとめ役として就任したが、この頃には体力的にもかなり限界に来ていたようである。貿易港に指定された青森港の国営修築を目指して奔走しているが、最後は病気により辞任し、翌年に亡くなっている。今なお彼は人生を政治にかけた例として語り継がれている。
脚注
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- ^ 衆議院『第三十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1917年、17頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』224頁。
- ^ 「青森市史」青森市役所, 1954
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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官選 | 旧青森市長 | - 工藤卓爾1898.7-1902.4
- 笹森儀助1902.5-1903.12
- 芹川得一1904.1-1908.10
- 淡谷清蔵1908.12-1910.3
- 工藤卓爾1910.4-1917.1
- 阿部政太郎1917.2-1919.10
- 工藤卓爾1921.2-1924.11
- 阿部政太郎1925.2-1926.5
- 中野浩1926.8-1930.8
- 北山一郎1930.8-1934.8
- 加賀秀雄1934.10-1936.3
- 千葉伝蔵1936.5-1945.7
- 柿崎守忠1945.7-1946.11
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公選 | 旧青森市長 | - 横山實1947.4-1963.4
- 千葉元江1963.4-1967.4
- 奈良岡末造1967.4-1979.4
- 工藤正1979.4-1989.3
- 佐々木誠造1989.5-2005.3.31
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青森市長 | - 佐々木誠造2005.4.24-2009.4.23
- 鹿内博2009.4.24-2016.10.31
- 小野寺晃彦2016.11.27-2023.4.30
- 西秀記2023.6.4-
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