島津忠廉
凡例 島津忠廉 | |
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時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 永享12年(1440年) |
死没 | 延徳3年8月20日(1491年9月23日)[1] |
改名 | 公久 |
別名 | 二郎三郎、修理亮 |
主君 | 島津忠昌 |
氏族 | 島津豊州家 |
父母 | 父:島津季久 |
兄弟 | 忠廉、平山忠康、加治木満久、梅谷(僧) |
妻 | 正室:島津忠国の娘 |
子 | 忠朝、久盈、忠秋、女(北郷忠相室) |
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島津 忠廉(しまづ ただかど)は、室町時代中期の薩摩国の武将。島津豊州家第2代当主。島津季久の長男。
長禄3年(1453年)、父季久とともに蒲生氏の居城・蒲生城を攻撃し、蒲生の地を支配下に置く。文明5年(1473年)、伊作家の島津久逸が反乱を起こすと、当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の島津忠昌に叛旗を翻す。しかし薩州家の島津国久や肥後国の相良為続の説得により兵を収め、久逸が鹿児島へ攻め寄せると忠昌に従い、久逸の軍勢を撃退した。
文明18年(1486年)、忠昌の命で新納氏・伊作家に替わってそれぞれの本拠であった飫肥城・櫛間城を与えられる。飫肥城に入ると、伊東氏の侵攻をたびたび阻止している。延徳3年(1491年)、摂津天王寺にて死去した。享年52。宗祇から『古今和歌集』や『伊勢物語』の奥義を伝授されたほか、桂庵玄樹に朱子学を学んだと言われている。
脚注
- ^ 『鹿児島県史 別巻』
島津豊州家第2代当主(1477年 - 1491年) | |
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宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
分家・支流 | |
越前家 | |
播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
相州家→ 垂水家 | |
豊州家 | |
玉里家 | |
加治木家 | |
佐土原家 | |
重富家 | |
和泉家→ 今和泉家 | |
宮之城家 | |
永吉家 | |
日置家 | |
北郷氏→ 都城家 | |
佐多氏→ 知覧家 |