大谷光照

曖昧さ回避 大谷光勝」あるいは「大谷光紹」とは別人です。
南京合同慰霊祭における大谷光照(右)、1937年12月18日

大谷 光照(おおたに こうしょう)は、日本の宗教家で浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。法名は勝如。 昭和天皇の従兄弟にあたる。

大谷光照
1911年(明治44年)11月1日 - 2002年(平成14年)6月14日
法名 勝如
院号 信誓院
光照
尊称 勝如上人
生地 京都府京都市
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 本願寺(西本願寺)
大谷本廟
テンプレートを表示

経歴

第22世法主大谷光瑞(鏡如上人)の実弟大谷光明 (浄如上人)の長男として京都府京都市で誕生した。母は九条道孝の七女紝子(きぬこ)、紝子の姉は大正天皇皇后(貞明皇后)の節子。

1914年(大正3年)、西本願寺の疑獄事件に端を発して光瑞が法主の座を引退、弟の光明に継承権があったが、光瑞が遠慮を求めて光明も就任を辞退した。新々門であった光照は当時4歳であったため、大谷家側近(近松尊定、六雄澤慶など)が4代にわたり管長代理を務めた。1927年(昭和2年)に得度して第23世法主を継職。以後50年の間、本願寺派教団の陣頭指揮にあたった。

その後、旧制第一高等学校を経て1935年(昭和10年)に東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。1937年(昭和12年)4月、徳大寺実厚長女の嬉子と結婚。子に大谷光真大谷紀美子ら。1977年(昭和52年)、門主を引退し前門となる。

戦前戦中の活動

青年法主光照は、昭和の戦時下の教団を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。

特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息(聖典とされている宗祖親鸞の撰述に準じるとされていた)では、天皇のため命を捧げよと次のように説いている。

凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候

光照自身も度々軍隊慰問を行い、南京攻略戦直後には自ら南京に入城し犠牲者追弔会を行った。教団も戦争協力の名目で大量の戦時国債を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。

戦後の主な活動

西本願寺は敗戦後GHQの指導のもとで、宗制の改革を行い、宗主の権限を縮小し、西本願寺の象徴的存在へと変更となる。1945年(昭和20年)まで、法主または門跡と呼称されたが、1946年(昭和21年)より、門主と改称される。

  • 1946年(昭和21年) - 管長制廃止などの教団制度改革を実施
  • 1948年(昭和23年) - 蓮如上人450回遠忌法要
  • 1961年(昭和36年) - 親鸞聖人700回大遠忌法要
  • 1973年(昭和48年) - 親鸞聖人誕生800年・立教開宗750年慶讃法要
  • 1975年(昭和50年) - 来日中で京都を訪れた英国女王エリザベス二世が本願寺を拝観。拝観に際して門主自ら案内する。[1]
  • 1977年(昭和52年) - 門主を退任し、前門となる。

主な職歴

(本願寺派の)戦争責任や戦時教学のその後

今日、戦時中「戦時教学」を推し進め、その指導的立場にあった光照らの戦争責任を問う声もある。戦時教学や戦争協力につき、光照の責任を問う声は教団内においてもあり、教区によっては相当批判が強かったとも言われるが、光照の存命中はこの問題が教団レベルで正式に是正されることはついになかった。戦時教学については、2002年の光照の死後、2004年5月に戦時中に出された消息を慚愧の対象として事実上失効させる宗令が出され[2]、その後さらに、2007年9月の臨時宗会において、教団の憲法とされる宗制で"歴代門主の消息は聖典に準じる"と定められていたものを、"初代親鸞、三代覚如、八代蓮如の消息に限る"という形に変えた[3]ことで、教団としての此の問題は解決したとされている。

人物

  • 門主在任中には、正信偈の改譜をはじめ、法式規範などを着々と整備していったことからも窺えるように、儀式儀礼には非常に厳格な面があった。
  • 趣味は切手収集、テニス、ゴルフ好きでも知られた。

著書

  • 『唐代の仏教儀礼』(有光社、1937年)
  • 『『法縁』抄 : 勝如上人の九十年』(本願寺出版社、2002年7月)ISBN 4894169916

脚注

  1. ^ (日本語) エリザベス女王(96)が死去 関西にもゆかりの地が… 1975年には京都を訪問、わび・さびを堪能, https://www.youtube.com/watch?v=5zeVKY7VjpY 2022年9月9日閲覧。 
  2. ^ 読売新聞. (2004年5月25日) 
  3. ^ 読売新聞. (2007年9月21日) 
日本の爵位
先代
大谷光瑞
伯爵
大谷家本願寺派)第3代
1914年 - 1947年
次代
(華族制度廃止)

本願寺寺基の移転と分立

東西分立前
本願寺の歴史

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321大谷本願寺1321 - 1465 山科本願寺1483 - 1532石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585天満本願寺1585 - 1591本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立

東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -

浄土真宗大谷本願寺派
本願寺文化興隆財団

⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -

本願寺(京都市右京区)

⇒ (嵯峨)本願寺2005 -

東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。

本願寺歴代

東西分立前

(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) 教如) - (1603年 本願寺の東西分立

東西分立後
西本願寺

西12 准如 - 西13 良如 - 西14 寂如 - 西15 住如 - 西16 湛如 - 西17 法如 - 西18 文如 - 西19 本如 - 西20 広如 - 西21 明如 - 西22 鏡如 - 西23 勝如 - *西24即如 - 西25大谷光淳(専如) -

東本願寺

東12 教如 - 東13 宣如 - 東14 如 - 東15 常如 - 東16 一如 - 東17 真如 - 東18 従如 - 東19 乗如 - 東20 達如 - 東21 嚴如 - 東22 現如 - 東23 彰如 - 東24 闡如東本願寺分派

東本願寺分派後
真宗本廟(東本願寺)
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺

東本25 興如 - 東本26大谷光見(聞如) -

­本山本願寺(浄土真宗大谷本願寺派)[1]

東山25 大谷暢順(經如)[2] -

(嵯峨)本願寺
略称 - 「西」=本願寺派、「」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • ISNI
  • VIAF
国立図書館
  • ドイツ
  • 日本
学術データベース
  • CiNii Books
  • CiNii Research