大村純鎮

 
凡例
大村 純鎮
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年8月20日(1759年10月10日
死没 文化11年7月16日(1814年8月30日
改名 新八郎(幼名)、純鎮
戒名 濬哲院憲章徳翁日新大居士
墓所 長崎県大村市の本経寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
肥前大村藩
氏族 大村氏
父母 大村純保植村家包の娘
兄弟 純将、純鎮
正室:松平容頌の養女
側室:大村鎮直の養女(鉤氏の娘)
板倉勝晙正室、純昌、酒井忠明室、章姫、隈包辰室、純文
養女酒井忠藎正室
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大村 純鎮(おおむら すみやす)は、肥前国大村藩の第9代藩主

生涯

宝暦9年(1759年)8月20日、第8代藩主・大村純保の次男として江戸で生まれた。宝暦10年(1760年)12月16日に父が死去したため、宝暦11年(1761年)2月16日に幼くして家督を継いだ。

寛政元年(1789年)8月より倹約、文武の奨励などを中心とした藩政改革を行い、寛政2年(1790年)に藩校の静寿園を五教館と改称し、藩士だけでなく百姓町人の入校も認めた[1]寛政6年(1794年)1月10日、江戸愛宕下の大村藩上屋敷が火災で類焼した。同年、この上屋敷の土地は幕府に収公され、替地として永田町の土地と移転費用が渡された。

享和3年(1803年)1月23日、家督を長男の純昌に譲って隠居した。

文化11年(1814年)7月16日に大村で死去した。享年56。

系譜

父母

正室

  • 留姫 ー 松平容頌の養女、松平容章の娘、後に離縁

側室

  • 大村鎮直の養女 ー 京の鉤氏の娘

子女

  • 大村純昌(長男)生母は側室
  • 大村純文(次男)
  • 章姫(三女) ー 織田信美正室
  • 板倉勝晙正室
  • 酒井忠明室
  • 珍子、昵 ー 家臣隈包辰(針尾政納)[2]

養女

脚注

  1. ^ 静寿園の頃から大村藩の藩校は藩士子弟に限らず開かれていた。
  2. ^ 針尾氏出身で文化11年(1812年)藩命により隈鎮豊の養子となり同年珍子と結婚。文政元年(1818年)に城代となり、同3年(1820年)に藩命で針尾家に戻り同家相続。政納は後妻を迎えているため、早期に死別か。
  3. ^ 有馬孝純の長男
大村瓜大村氏大村藩9代藩主 (1761年 - 1803年)