フィルモス・フサール

この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いフサール・フィルモスと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名)
フィルモス・フサール
本名 フィルモス・ヘアツ (Vilmos Herz)
誕生日 (1884-01-05) 1884年1月5日
出生地 ブダペスト
死没年 1960年9月8日(1960-09-08)(76歳)
死没地 ヒールデン(英語版)
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フィルモス・フサール(Vilmos Huszár、1884年 – 1960年)は、ハンガリーの画家およびデザイナー。オランダで活動し、著名な芸術運動デ・ステイル (De Stijl) の主唱者の一人である。

フサールはハンガリーブダペストに生まれ、1905年 (21歳) にオランダフォールブルグ(英語版)に移り住んだ。キュビスムおよびフューチャリズムの影響を受け、彼と並んで1917年のデ・ステイル創始の中心人物であるピエト・モンドリアンテオ・ファン・ドゥースブルフと出会う。また、『デ・ステイル』誌を共同制作し、創刊号の表紙デザインを担当した。

フサールが配色計画を行ったブランジェル邸の子供部屋(1918年)

1918年、フサールはフォールブルグのブランジェル邸 (Bruynzeel house) の寝室の配色設計を行った。1920年から1921年にかけて、ピート・スヴァルト(英語版)との家具の共同設計を行い、のちの1923年にフサールはデ・ステイルのグループから離脱した。また、大ベルリン美術展の内装をヘリット・リートフェルトとともに設計。1925年以降、フサールはグラフィックデザインと絵画の分野に集中するようになる。

1926年、紙巻きたばこのブランド “ミス・ブランシェ・ヴァージニア” のビジュアル・アイデンティティ一式(パッケージ、広告、店頭ポップ)を制作。このコンセプトは、当時現れはじめた “ニュー・ウィメン(英語版)” (New Women) あるいは “フラッパー” (Flapper) たちのイメージを基としている。フラッパーとは、若く独身で都会的、仕事を持ち、独立した理念と、権威と社会規範に対するある種の軽視、というイメージで知られる女性たちである。喫煙は、彼女らの新たな独立性と密接に関係していた。

現在、フサールの作品の多くは所在が不明となっている。彼の絵画作品、彫刻作品の多くが『デ・ステイル』誌の掲載写真あるいは彼自身が撮影した写真で残るのみである。所在不明作品には、1920年代初期のダダ会議に使用された、幾つかのポーズを取る“踊るからくり人形” (Dancing mechanical doll) の絵画などがある。

1960年、フサールはオランダの都市ヒールデン(英語版)にて没した。

没後25年後の1985年の3月8日から5月19日にかけ、ハーグデン・ハーグ市美術館(英語版)において大規模なフサール回顧展が開催された。

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、フィルモス・フサールに関連するカテゴリがあります。
  • en:Category:De Stijl
  • en:Category:Cubist artists
  • en:Category:20th-century Hungarian painters

外部リンク

  • Artcyclopedia フィルモス・フサールの作品
  • Brief biography
  • Short biography (in german)
  • Video reconstruction of 'Mechanical Dancing Figure' by Huszár in 1922
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